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大河の主役・明智光秀ってどんな人?謎の多い幼少期や経歴 その生涯に迫る

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2020年のNHK大河ドラマは『麒麟がくる』では、本能寺の変で有名な”明智光秀”の生涯を描きます。

 

有名女優さんの降板など騒がしい話題の多いNHK大河ドラマだけに、放送前から注目を集めていますね(笑)。

 

今回は、このドラマの主役となる”明智光秀”について調べてみたいと思います。

 

明智光秀 知られざる幼少期

 

ドラマでは1528年(享禄元年)に出生とされていますが、明智光秀がいつ・どこで生まれたのかは定かではありません。

 

「明智軍記」による1528年説、「当代記」による1516年(永世13年)説が有力だそうですが、なかには1540年(天文9年)以降とする説もあるそうです。

 

仮に、1540年以降説をとると、1534年(天文3年)生まれの織田信長よりも年少ということになります。

 

また、大河ドラマではその父親を「明智光綱」としていますが、明智光国、明智光隆など諸説あり、父の名前も伝わらない低い身分だったともいわれています。

 

出生地についてもわかっておらず、明智城説、近江国説など出生地とされる言い伝えは実に6か所も存在します。

 

母親は「明智牧:お牧の方」とされています。

 

若狭武田氏の出身とされているので、これが事実であれば 光秀は若狭武田氏の血脈を受け継いでいることになります。

 

しかし、母親についても諸説あり、光綱が病弱で子ができなかったため、嫁いでいた妹の子を養子としたとの説もあります。

 

…なんだか諸説あり、ばっかりですね。

 

これだけ有名な明智光秀ですが、わからないことがまだまだ多くあるんですね。

 

今回の大河ドラマでは、1528年明智光綱・牧夫妻の子として明智城で生を受けた、との説をとるようです。

 

光秀の母:お牧の方の非業の死?

 

光秀の母とされるお牧の方。

 

このお牧の方。実に優秀な人物らしく、光綱亡き後は光秀に「武士の心構え」を諭したりするような、教養のある人物のよう。

 

しかし、その最期は悲しいものだとする逸話があります。

 

遠山信春の書いた「総見記」(「織田軍記」ともいう)によると、光秀が5年以上の歳月を要して取り組んだ丹波攻略での八上城攻めでの人質となっています。

 

八上城では 波多野秀治らの三兄弟の激しい抵抗にあい、戦が長引きます。

 

そこで光秀は和議を申し入れ、「信長に従うのであれば本領と地位は安堵しよう。その証として母を差し出そう」と約束し、光秀の母が八上城へ送られました。

 

八上城にお牧の方が入るのと入れ替わりに、波多野三兄弟は安土へ向かいます。

 

しかし、ここで織田信長は約束を破り、波多野三兄弟を磔にしてしまうのです。

 

これを知った波多野家の家臣たちが、人質のお牧の方を同様に磔にして殺してしまったというのです。

 

「総見記」によると、この件の復讐として「本能寺の変」を起こしたとされています。

『絵本太閤記』八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図

 

しかしながら、江戸時代中期の逸話集「常山紀談」では、 母を人質に差し出したのは光秀の謀略であったと書かれています。

 

つまり、母が処刑されるのは織り込み済みだったということ。

 

しかしながら、この光秀の母の人質・磔説は異論が多くあります。

 

そもそも、八上城では食料もつきてきていて、放っておいても自滅するのは時間の問題だったともいわれ、そんな中、光秀がわざわざ母を人質に出す必要性はありません。

 

谷口克広氏は『検証 本能寺の変』の中で、「戦国らしく悲惨な、読者に訴えるストーリーなので、小説などではよく取り上げられているが、事実でないことははっきりしている」と断言しています。

 

真実ではないようですが、物語としてはよくできているんでね(笑)。

 

ドラマの中ではお牧の方はどのように描かれていくのか楽しみですね。

 

 

明智光秀 斎藤道三につかえた青年期

 

大河ドラマ「麒麟がくる」では、1547年、若き明智光秀が鉄砲というこれまで見たこともなかった武器に興味を持ち、斎藤道三に願い出て、鉄砲がどういうものかを探る旅にでるところから始まるそうです。

 

明智光秀は、織田信長に仕えるまでの履歴には不明なところが多く、このあたりの逸話は創作のようです。

 

しかし、光秀の父とされる光綱の妹は斎藤道三に嫁いでおり、姻戚関係にあります。

 

(ちなみに、その娘が帰蝶・のちの濃姫ですね。)

 

そういったこともあってか、光秀は美濃の国主となった斎藤道三に仕えます。

 

1556年(弘治2年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために、義龍に明智城を攻められ一家は離散します。

 

話は前後しますが、1546年、光秀は山岸光信の娘・千草と結婚しますが、のちに彼女とは死別したようです。

 

二人の間に生まれた光重は母方の山岸家の養子となり、のちに明智家の家臣に加わっているそうです。

 

1553年には妻木範煕の娘・煕子と結婚します。

 

この煕子は献身的に光秀を支えたようで、明智城を追われ一家離散に追い込まれた光秀は、本拠を失い困窮しますが、彼女はその黒髪を売って生活を助けたといいます。

 

光秀は、母方の若狭武田氏を頼って、越前の国へ行き、母のお牧の方の縁者が住職を務めていたという西福庵に妻の煕子たちと移ったとされています。

 

このころ、寺子屋を開き生活していた光秀は、行きかう僧侶たちから諸国の情勢を聞くなどしていたようです。

 

寺で連歌の会なども催され、ここに朝倉家の家臣も参加していました。

 

そしてこのころ、光秀は越前の国の朝倉義景に仕えたとされています。

 

医者としても活躍していた?

 

明智光秀は教養も深かったようですが、なんと医者としても活躍していた記録があります。

 

熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能の、熊本市にある子孫の自宅で発見された医学書の中には、 明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田によりまとめられたものだと推測される内容があります。

 

それは、出産や刀傷の対処法など 当時としては高度な医学的知識に関する記述などがあり、 光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させるものとなっています。

 

ただ、この時期については朝倉家に仕えた時期と重なる部分もあり、まだはっきりとは解明されていないようです。

 

和歌をたしなむ文学的な素養と、医学の知識、寺子屋で教えられるだけの教養。

 

光秀はかなり頭の良い人だったとうかがえます。

 

 

明智光秀 織田信長との出会い

 

1565年(永禄8年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺されると、その弟の義昭は若狭に逃れます。

 

義昭は織田信長ら武将たちに、自らの将軍擁立を促しますが、なかなかうまくいきません。

 

信長に不信感を募らせた義昭は、さらに各地に援助を求め、このときに朝倉義景を頼ったことから、光秀とも接点を持つようになります。

 

義昭は朝倉義景に上洛を進めますが、義景は腰が重くなかなか応じません。

 

そこで、光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧めます。

 

義昭は、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対して、上洛して自身を征夷大将軍につけるよう 、光秀を通して要請したとされます(「細川家記」より)。

 

こうして、足利義昭、織田信長と顔を合わせることになった光秀は、このあと、義昭・信長両属の家臣となります。

 

 

明智光秀 歴史の表舞台へ

 

ここから、光秀はいろいろな書物に登場するようになります。

 

1569年、本圀寺の変では三好三人衆から襲われた義昭を守り、「信長公記」に光秀が登場します。

 

この年の4月ごろから、木下秀吉、丹羽長秀、中川重政とともに京都奉行の職を担うようになります。

 

その後も信長の信頼を得ていた光秀は、1571年、比叡山焼き討ちでは中心的実行部隊として武功を挙げ、信長から近江国滋賀郡を与えられます。

 

ここに、足利義昭とは決別し、信長の直臣となります。

 

1572年、坂本城の築城に取り掛かり、翌年入城しています。

 

1573年、足利義昭が挙兵し、光秀は義昭とたもとを分かち信長の直臣として従軍。

 

信長は講和交渉を進めますが、破綻し、ついには義昭は降伏。

 

その後、追放され室町幕府は事実上滅亡します。

 

1575年(天正3年)には惟任の姓を賜り、従五位下日向守の任官を受け、惟任日向守となっています。

 

その後、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆などに参戦します。

 

ここで、お牧の方のところで触れた丹波攻略にかかります。

 

その後、石山本願寺との天王寺の戦いでは過労(重病との説も)で倒れてしまいます。

 

さらには、光秀の看病をしていた妻・煕子が42歳で亡くなってしまいます。

 

つぎつぎに信長の命を受けて、武功を挙げる光秀は、丹波攻略を終えた信長に「 丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛されています。

 

1581年、光秀が家法として定めた「明智家法」のあとがきには、「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書いています。

 

さらには、茶会でも「床の間に、信長自筆の書をかける」と話すなど、信長を崇敬している様子がよくわかります。

 

 

明智光秀 本能寺の変へ

 

信長も信頼を寄せ、光秀も信長を崇敬していた二人の関係は、そう長くは続きませんでした。

 

各地の戦に参戦する光秀は、京都での「馬揃え」のようなイベントも取り仕切るようになります。

 

光秀は、将軍義昭の家臣でもあったので、儀礼にも詳しく、洗練されていて、こういった行事にはうってつけだったのでしょう。

 

天下に近づく信長にとっても重宝だったに違いありません。

 

しかし1582年、運命の歯車が狂い始めます。

 

武田氏との最終戦である甲州征伐に従軍しますが、このときは先行していた織田信忠軍が戦闘の主力で、光秀は見届けるだけだったそうです。

 

この戦いで名城・高遠城を攻略した信忠に対して、信長は「天下支配の権も譲ろう」との言葉も贈り、ほめたたえたといいます。

 

その一方、光秀は信長に対して失言があったと伝えられています。

 

「私たちも苦労しましたねぇ。」

 

さしたる役目もしてない光秀の言葉に信長は激怒し、光秀を滅多打ちにしたといいます。

 

また、徳川家康をもてなす場では、饗応役であった光秀が任務を解かれ、応援を要請した毛利攻めをしていた羽柴秀吉の支援を命ぜられています。

 

この時、光秀の指示で出した魚が腐っていた、料理がまずかったなどの理由で信長の怒りを買い、またもや折檻をうけたとの話もあります。

 

そうして、毛利攻めの羽柴軍を応援する途上、「敵は本能寺にあり!」と行き先を変え、信長を討ちに向かいます。

 

ほんの2・3年前まで蜜月のような時期を過ごした二人。

 

なぜ、光秀は信長を討とうとしたのでしょうか。

 

本能寺の変の謎

 

本能寺の変は日本史上、最大のミステリーともいわれます。

 

天下統一を目前にしながらの悲劇。

 

燃え盛る炎のあとには信長の遺体は見つからず、生存説もありました。

 

現在に至るまでなお、そのインパクトは大きいものです。

 

さらにミステリアスなのは、その動機。

 

なぜ、光秀は信長を討ったのか。

 

本能寺の変のあと、遺体を回収できなかったことは光秀にとって、大きな誤算でした。

 

信長の死を確実なものとしてアピールできず、その死があやふやなままでは織田傘下の武将をまとめきれません。

 

京都周辺には光秀と関係の深い、細川親子や筒井順慶などの有力武将がいましたが、協力を求めても断られてしまいます。

 

とくに、細川家には娘の玉子(細川ガラシャ)を嫁がせており、味方になることを期待していただけに、ショックも大きかったことでしょう。

 

そうして、味方を見つけられないまま、戻ってくるはずのない羽柴軍と対峙することになります。

 

本能寺の変を知った秀吉は、毛利氏側と和睦し、中国地方から引き返し、事変から11日後には天王山のふもとの山崎で光秀と兵を交えます。 

 

秀吉はなんと230㎞をわずか10日で走破します(中国大返しといわれてます)。

 

平均すれば1日23㎞。

 

大したことないと思うかもしれませんが、武器を持ち、食料などももっての移動です。

 

さらには、その前後に戦っています。

 

恐るべし、です。

 

羽柴軍27,000人に対して、明智軍は17,000人(諸説あり、1万人ほどとする説も)。

 

兵数では秀吉軍が勝っていましたが、合戦が長引けば明智軍にとって好ましい影響も考えられ( にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)、また、羽柴軍は中国大返しのため疲弊しており、高山右近ら現地で合流した諸勢に期待するしかなかったようです。

 

「太閤記」などに残る逸話は創作とされ、詳細は分かっていませんが、いずれにしろ、短時間で明智軍は敗走したとされています。

 

同日深夜に、坂本城に戻る途中、落ち武者狩りにあい、竹やりでさされて深手を負い、そのために自害してその一生を終えます。

 

そこで残るのが、「なぜ、光秀は本能寺で信長を討ったのか」という謎です。

 

なんと、ウィキペディアには57もの説があるとされています。

 

びっくりですね!

 

その中でも有力とされる説をいくつか紹介します。

 

①「明日は我が身」説

 例えば、信長の家臣であった佐久間信盛は、石山本願寺の攻略がうまくいかず、のちに織田家を追放されてしまいます。

 譜代の家臣でも働きが悪ければ追放されてしまう。

いつかは自分も追放されるのではないかと不安だった、とする説。

 

②「怨恨」説

 横暴な信長に対して、神経質な光秀がたまらずにキレた、という説。

料理の不手際を理由に家康の饗応役を解任されるなど、家臣たちの前で恥をかかされたことに恨みを抱いていたなどの理由が挙げられています。

 

③「陰謀」説

 その1:天皇をないがしろにする信長のことをよく思わない公家たちが光秀をそそのかした。

 その2:家康や秀吉が計画を立てていた。

 その3:復権を考えている足利義昭が誘いをかけた。

 

④「武門の意地」説

 農民出身の秀吉の下につくことに我慢ができなかったとする説。

 

⑤「野望」説

 信長を討って、自分が天下人になろうと思った、とする説。

その理由として、本能寺の変の数日前に開かれた「愛宕百韻」で光秀が詠んだ句です。

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

これは「土岐氏の自分が天下に命令する人になるよ」との意味があるとされています。

ただし、これは『惟任退治記』によるもの。

『惟任退治記』は秀吉の側近により書かれており、史料的価値については疑問が残ります。

 

そのほかにも実にさまざまな説があり、本当のところは今も闇の中です。

 

本当にいろいろな説がありますが、今のところは「突発的な単独犯行」説が最有力のようです。

 

信長と、その嫡男の信忠がそれぞれ少数の兵しか持たずにすぐ近くにいる。

 

自身は兵を10,000以上の兵を携え、周囲には細川家や筒井家など味方になってくれそうな人たちがいる…。

 

まさに、千載一遇のチャンスが巡ってきたわけです。

 

その理由が、恨みだったのか、野望があったのか、はたまたほかの理由があったのか…。

 

大河ドラマでは終盤の見どころになるのでしょうが、どのような説をとり、どのように描かれるのでしょう。

 

楽しみにしたいですね。

 

 

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