社会

知られざる日本の原爆開発 「二号研究」「F号研究」

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8月6日、8月9日は日本人にとって忘れてはいけない日です。

 

第二次世界大戦末期に広島、長崎に原爆が投下された日です。

 

あまりにも甚大な被害を受け、その惨状は目を覆うばかりですが、これを機に日本は終戦へと向かいます。

 

2020年8月15日にNHKで放送されるドラマ「太陽の子」では日本の原爆研究の携わる科学者たちの様子が描かれています。

 

戦時下の日本で、原爆を開発するための研究が進められていたことを知っている人は、どれだけいるでしょうか。

 

「二号研究」「F号研究」と呼ばれたそれぞれの研究を少し見てみましょう。

 

知られざる日本の原爆開発 「二号研究」

 

まず一つが、陸軍が理化学研究所の仁科芳雄博士に依頼した「二号研究」です。

 

「二号研究」 陸軍が理研に依頼

 

そもそも、理研は第一次世界大戦をきっかけに生まれました。

 

対戦の勃発を機に、薬の原材料などが輸入できなくなり、自然科学分野を振興する必要に迫られたからでした。

 

当時の大財閥である三井や三菱といったところから資金や土地の提供を受けて設立されました。

 

潤沢な研究資金を持っていた理研は、日本の科学分野をリードし、特に仁科博士は原子核破壊装置「サイクロトロン」を世界で2番目に完成させるなど、物理学の分野では日本のトップ科学者でした。

 

その仁科芳雄博士に陸軍が原爆の研究・開発を持ち掛けたのは1940年ごろとされています。

 

広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日ですから、その約五年前から日本は原爆が必要になるだろうことを予測していたわけです。

 

ですが、この時に仁科芳雄博士はこの申し出を断ります。

 

すでにドイツやアメリカは莫大な資金と人材を投入して原爆の研究・開発を進めているとの噂が届いていました。

 

仁科芳雄博士は、それでもアメリカが原爆を完成させることは技術的に難しいと考え、研究開発費がわずか45億円の日本がアメリカよりも先に原爆を完成させられるとは考えていなかったようです。

 

また、原料となるウランもありませんでした。

 

史料によると、福島県石川町でウランを採掘していたようですが、原爆の材料として使える品質ではなかったといいます。

 

そうして一度は断った原爆の研究・開発ですが、1943年ごろ、事態は変わります。

 

戦局が悪化し、陸軍は原爆に一縷の望みを託そうとしたのです。

 

「二号研究」 仁科博士の「二」から命名

 

再三にわたり要請を受けた仁科芳雄博士は、いよいよ原爆の研究・開発を進めます。

 

この研究は仁科芳雄博士の二をとって「二号研究」と呼ばれました。

 

Wikipediaには「二号研究」について次のように記載されています。

 

この計画は天然ウラン中のウラン235熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散筒が完成し、濃縮実験が始まった。原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった

Wikipedia

暴走した軽水炉…

 

なんとも恐ろしい表現です。

事実、1999年9月の東海村でのJOC臨界事故は同様の経緯で起きており、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかになっています。

 

原爆を作るためには天然ウランのなかからウラン235を取り出さなければならないそうです。

 

当時、その方法は4つ知られていました。

 

  1. 熱拡散法
  2. 気体拡散法
  3. 電磁法
  4. 超遠心法

 

本来ならば、このなかからどの方法が適しているのかを十分に検討したり、試したりすることが必要なのでしょうが、当時の日本には十分な時間も資材もなく、理研は熱拡散法を選択したそうです。

 

この熱拡散法を実践するには大きな分離筒を作ったり、六フッ化ウランが必要だったりするのですが、その資材の調達や六フッ化ウランの生成に時間がかかり、実際に分離実験を始めたのは1944年7月になってからでした。

 

アメリカやドイツでも熱拡散法は試されていましたが、1941年の時点で熱拡散法ではウラン235は分離できないとの結論を得ていました。

  

理研が熱拡散法を選択した時には、すでにその方法では分離できないことがわかっていたわけです。

 

「二号研究」 腹を切る時がきた…

 

そして、二号研究が実を結ばないまま、1945年8月6日を迎えます。

 

アメリカのトルーマン大統領が「原子爆弾を投下した」と発表しますが、仁科博士らはにわかには信じられなかったようです。

 

アメリカ側も太平洋戦争中に原爆を完成させることはできないと思っていたからです。

 

そして、実際を確かめるために広島に向かう途中、研究員にあてた手紙にこう書き記します。

 

「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」

産経新聞 2015/8/3

広島での現地調査をし、実際に投下されたのは原爆だったと確認します。

 

「二号研究」 本当の目的は何か

 

仁科芳雄博士は、原爆の完成はできないだろうと思っていたそうです。

 

では、なぜ原爆の研究・開発を引き受けたのか。

 

「理研の優秀な科学者を戦地に送らせないという意図があったからだと思います。原爆開発に取り組むという大義名分があれば、陸軍は無理を言ってきません。優秀な科学者を温存することで、未来の日本の発展につなげる。仁科先生は敗戦後の日本科学界、ひいては日本国全体のことまで考えていたのだと思います」

the PAGE 仁科記念財団常務理事:矢野安重さんのインタビューより

 

実際、「二号研究」に関わった朝永振一郎博士は、その後ノーベル賞を受賞し、日本を代表する科学者になっています。

 

仁科芳雄博士は原子力の爆弾としての性質よりも、そのエネルギー源としての活用をより考えていたようです。

 

原爆開発中の実験の失敗の際も

なかなかむづかしい、とにかく核分裂するときに非常なエネルギーが出るんだから、爆弾みたいにしないで、熱源というか、動力源として使うには非常にいいんだが」

と言っていたそうです。

 

終戦後、仁科芳雄博士は原子力の安全利用のための国際的な枠組み作りを訴えました。

 

知られざる日本の原爆研究 「F号研究」

 

もう一つが、海軍が京都帝国大学の荒勝文策博士に依頼した「F号研究」です。

 

2020年の終戦ドラマとしてNHKが放送した「太陽の子」の主人公は、この「F号研究」の研究者との設定でしたね。(「太陽の子」についてはコチラ

 

「F号研究」 陸軍が京都帝大に依頼

 

海軍では1940年ごろに発表された論文「アメリカの超爆薬」を翻訳し、「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」あったことに着目し、日本でも研究を進めなければならないとなりました。

 

人材も資材もない海軍は、京都帝大の荒勝文策博士にこの研究を依頼します。

 

これが「F号研究」の始まりです。

 

この研究の始まりは公式の文書によると、1943年5月とされていますが、研究に参加した当事者らの話では、1942年10月、1943年10月、1944年終盤、1945年に入ってから…などまちまちです。

 

これは、荒勝文策教授が依頼を受けてから、いろいろと可能性を検討するのに時間を要し、個々の研究者にそのときどきに役割を付したためと考えられています。

 

「F号研究」 Fはfission(核分裂)の頭文字

 

「F号研究」ではウラン分離法を理研と同じ熱拡散法では意味がないとして、遠心分離法を選択しました。

 

遠心分離法は、六フッ化ウランガスを入れた円筒形の容器を高速回転させることにより重いウラン238は外側に、軽いウラン235は中心付近に溜まることを利用する方法です。

 

この遠心分離器の作成をほかの機関に依頼したり、自身の研究室でも作成に当たりましたが、うまくいきませんでした。

 

「F号研究」」については終戦後、GHQにより荒勝文策教授の研究資料もほとんど持ち去られたことなどから、残っている資料が少ないのか詳細は分からないことが多かったのですが、戦後70年を前に京都大で荒勝文策教授の研究室の所属していた科学者たちの研究ノートなどが見つかりました。

 

これによると、原爆開発で最も重要とされたウラン濃縮についての記述あり、また、遠心分離装置の回転数を計算した数値や必要な資材の寸法、参考にした海外論文が記され、実際に研究を進めていたことがわかります。

 

しかし、「二号研究」と同様に資材等の入手が困難で、完成には至りませんでした。

 

荒勝文策教授もまた、戦時下での原爆の完成は難しいと思っていたようです。

 

それでもやはり、科学者を守るため、日本の戦後の科学を守るため、「F号研究」を引き受けたのでしょう。

 

「F号研究」に関わった湯川秀樹博士も戦後、ノーベル賞を受賞しています。

 

知られざる日本の原爆開発 マンハッタン計画の完成と日本の敗北

 

1945年8月、日本は広島と長崎に原爆の投下を受け、8月14日、ポツダム宣言を受諾します。

 

このとき投下された原爆は、アメリカで「マンハッタン計画」の名のもとに研究・開発されてきました。

 

1942年10月に始まったこの計画は、ドイツのヒトラーが進める原爆開発が進んでいることに焦りを感じていたアメリカ・イギリス・カナダが科学者技術者を総動員し、約20ドルもの資金を投入したものです。

 

ドイツから亡命したユダヤ人物理学者レオ・シラードらがアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に書簡を送ったのが、アメリカ政府の核開発を進める動きにつながったとされています(アインシュタインはその後の計画には一切関知していないようです)。

 

このマンハッタン計画は広島・長崎への原爆投下をもって成功するわけですが、同時にそれは、仁科文雄博士が「腹を切るときがきた」と語っていたように、日本の原爆開発に携わる研究者にとっては敗北でした。

 

原爆投下後の広島・長崎で現地調査にあたった両研究班は、原爆投下直後の混乱状態でも精度の高い測定を行います。

 

仁科文雄博士らは土壌を採取して東京に持ち帰り精査し、また、荒勝文策教授らは爆心地近くの西練兵場など十数カ所で採取した土壌からベータ線を計測、科学的な検証で原爆と断定しました。

 

残留放射能のエネルギーや半減期を調べて核分裂の生成物まで推定しています。

 

日本の基礎科学の研究レベルは高く、米国にも劣らないものだったそうですが、物資の乏しい日本での原爆の完成は無理だったのでしょう。

 

知られざる日本の原爆開発 事実上の核保有国

 

こうして戦時下での原爆開発は完成も見ないまま終了します。

 

その後は原爆開発等はせず、原子力の安全利用に舵をきっているのは承知のとおりです。

 

しかしながら、日本は事実上の核保有国ともいわれます。

 

なぜでしょうか。

 

日本は必要ならば1年以内に核兵器を作れるだけの技術、原料、予算があると指摘されています。

 

日本は"screwdriver's turn(ネジを一つ締めるだけ)"で核兵器を作ることができる状態だというのです。

 

現在のところ、高速増殖炉計画は頓挫し、また、福島の東京電力第一原子力発電所の事故後は、原発に対する国民の拒否感があることも否めません。

 

しかしながら、原発での使用済み核燃料は増え続けており、高濃度プルトニウムが大量に保管されていることは事実です。

 

そして、世界に誇れる高い技術力と知識、予算。

 

核兵器を作ろうとサインを出せば、すぐに完成させられるであろうことは素人にもわかります。

 

しかしながら、世界唯一の被爆国として、広島・長崎の惨状を知っているおっ区民として、これを許してはならないと思います。

 

世界はいつも危うい均衡を保っていて、いつ崩れるかわからないことも多く、核兵器を使わないまでも、爆撃や抗争は頻発しています。

 

アメリカや中国、北朝鮮など日本の周囲の国々も平穏ではありません。

 

これまでの事実に目を背けることなく、これからの平和のために考え続けなければならないのかもしれません。

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