元国連難民高等弁務官として活躍された緒方貞子さんが亡くなられたそうです。
世界で最も尊敬される日本人といわれています。
1991年から約10年間、日本人として初めて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップを務めた緒方貞子さんが亡くなった。小柄な体に防弾チョッキを着用して世界各地の難民の現場を飛び回った。国連では今も、徹底した現場主義の仕事ぶりが語り継がれている。
yahoo!ニュース
緒方さんが国連難民高等弁務官に就任されるときのTVニュースの映像を覚えています。
こんな小柄な日本人の女性が、大きな海外の男性陣に交じってやっていけるのかな、お飾りなのかな、なんてとても失礼な感想を持ちました。
でも、実際は周囲の意見を取りまとめるだけでなく、自ら現場に出向き、決断していく。
かっこいい女性の姿がその後何度も報道されました。
日本国内ではやっと「男女雇用機会均等法」が施行され、お茶くみの女子社員ではなく、しっかりとキャリアを積む女性が社会に増えてきたころです。
そんな憧れをもって報道をみていた緒方さんについてしらべてみました。
緒方貞子さん死去 元国連難民高等弁務官 緒方さんってどんな人?
緒方さんは1927年、東京に生まれました。
曽祖父はなんとあの、犬養毅元首相。貞子という名前は犬養元首相がつけたそうです。
父親が外交官だったので、幼少期からアメリカや中国などでそだちました。
一期生として進学した聖心女子大学を51年に卒業、その後、アメリカのジョージタウン大学で修士号、カリフォルニア大学バークリー校で博士号を取得し、国際政治学者の道を歩みました。
専門は日米関係や対米戦争。犬養元首相が殺害された5.15事件の当事者のヒアリングもしたそうですよ。
それから国際基督教大学や上智大学で教鞭をとったのち、1976年に国連公使に就任して活躍の場を国際機関に移していきます。
元国連事務次長の明石康さんは次のように述べています。
「 戦前の日本が軍事色を強めていく過程を研究していた。日本が再びそうなってはいけないという思いは強かったと思う。筋金入りの国際派の日本人だった 」
朝日新聞デジタル
学者として日米関係・対米戦争を研究し、その戦争に向かっていく日本の過程を知っているからこそ、それを繰り返してはいけないとの信念があったのでしょう。
その信念が、国連難民高等弁務官としての活躍のベースのあったのだと思います。
緒方貞子さん死去 元国連難民高等弁務官 徹底した現場主義貫く
緒方貞子さんは1991年、国連難民高等弁務官に就任します。
そのころ、国連難民高等弁務官事務所では資金流用問題などがあり、組織としてガタガタだった時期です。
そして、新しい弁務官が東洋人の女性だと知らされた事務所の面々はこんなことを口にしていたようです。
「 名前も聞いたことのない学者出身の人。またトップがそれじゃこの組織はダメかもね。 」
しかし、その予想は大きく覆されます。
緒方さんは学者だったにもかかわらず、現場でも強いリーダーシップを発揮します。
クルド人難民支援
緒方さんが国連難民高等弁務官に就任した1991年は、東西冷戦が終結し、それまでとは違った国際的な力関係が生まれた時期です。
そして間もなく、湾岸戦争が勃発します。
湾岸戦争の始まりは、テレビで放映されました。
まるで、花火大会でもみているように色鮮やかな火花が飛び交うさまは、祖父や祖母の語るそれとはあまりにも違い、虚構の世界の出来事のようにみえました。
でも、戦争です。
現場ではたくさんの犠牲が出ていました。
緒方さんの語り継がれる大きな功績の一つが、ここです。
湾岸戦争が勃発すると、イラク国内のクルド人が武装蜂起し制圧しようとするイラク軍から逃れるために、イランやトルコ国境に押し寄せます。
しかし、トルコはクルド人の入国を拒否したので、イラク国内に40万人ものクルド人が難民として留まりました。
当時、 UNHCRでは国内避難民の保護は直接的な任務ではなかった ので、彼らに対する支援をどうするか議論になりました。
国境を越えていたら支援する、国境を越えていないから支援しない。
緒方さんはここで決断します。
人道的視点から、そして人命を守るため、彼らを保護し支援することを決断したのです。
それまでの難民保護の考え方を越え、新しい支援の枠組みを作り上げました。
ボスニア紛争
その後、92年にはボスニア紛争が起こります。
ボスニアにはセルビア系住民、クロアチア系住民、イスラム系住民が暮らしていましたが、ユーゴスラビア連邦からの独立をきっかけに民族対立が深刻化し内戦となったのです。
UNHCR はボスニア政府と交渉して、サラエボに食糧支援することにしましたが、届いた食料をトラックで運ぶ際にボスニア政府が道路を封鎖して物資の輸送と配布を妨害してきました。
イスラム系へより多くの物資が届くように仕向けたのです。
緒方さんは、 「もし道路を封鎖するのであれば、サラエボを含めて、セルビア人勢力支配下のボスニアにおける全ての救援活動を直ちに一時停止する」と発表しました。
人道支援が政治的に利用されることを回避するためです。
このころ、緒方さんはヘルメットをかぶり、防弾チョッキを着てサラエボに向かって難民の声を聞いています。
「現場に行ってみないとわからないことがある。」といい、危険な紛争地帯に何度も足を運んでいます。
1年の半分以上を海外視察に充てたといいます。
だからこそ、政治に左右されない、人を助けるための支援をする決断ができたのだと思います。
ルワンダでの難民キャンプの治安維持
1994年にはルワンダで フツ族過激派によるツチ族の虐殺が起こりました。
この時も多くの難民が発生し、ザイール国境沿いのゴマに難民キャンプを設営し、食糧支援などを行いました。
このキャンプへの支援に国際社会から議論が巻き起こります。
100万人規模のルワンダ難民の中には、武装集団に似た人も含まれていました。
よって、その治安維持が最大のポイントでしたが、協力してくれる国や団体はなかなか現れませんでした。
とても危険な任務であるとともに、武装集団への支援に異を唱える人も多かったからです。
そんななか、緒方さんは、 ザイールのモブツ大統領の親衛隊とアフリカ諸国の仕官に訓練を施し、難民キャンプの治安維持にあたってもらうことに成功しました。
難民の生命の安全のために、枠にとらわれない策を講じてきたのです。
緒方貞子さん死去 元国連難民高等弁務官 「小さな巨人」その信念
緒方さんは、自身の判断基準をその著書(「共に生きるということ be humane」)のなかで、「『生きてもらう』ということに尽きるんですよね。いろんなやり方があっても、それが大事なことだと思いますよ。それが人道支援の一番の根幹にある」と説明しています。
小さな体で現場を歩き回り、大国に行動を促すその姿は「身長5フィートの小さな巨人」と言われました。
だれもが、彼女が就任するときに感じた思いを大きく覆されたと思ったでしょう。
そして、 国家中心の安全保障に代わる概念として、紛争や貧困など、あらゆる脅威から人々の生存や尊厳を守る「人間の安全保障」の重要性を提起し、2012年の国連総会では「人間の安全保障」を重視する決議が全会一致で採択されました。
緒方さんは以前のインタビューのなかで、日本の若者たちにも行動を促す発言をしています。
「日本は生活や文化の程度において、非常に立派な国だと思う。そうした日本の中で生きる自分は、そうではないところで生きる人々に対して、何か役割を果たせるのではないかという思いを持ってほしい」
時事通信
第二次世界大戦が終わって70年余りが過ぎ、経済は大きな成長を遂げ、多くの日本人が豊かさと平和の恩恵を受けています。
今の多くの日本人は戦争を直接は知りません。
TVで流される戦争や紛争の映像は、どこか作り物のようで実態がないようにも思えます。
ですが、世界の各所で紛争が起き、「生きること」、その最低限の人間の権利が奪われている人が大勢いることを知らなけらばなりません。
緒方さんは言います。
「大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない」
緒方さんの知識と行動力。
もちろん、足元にも及びませんが、私たちの知恵や行動が巡り巡って世界の人々の小さな力になれたら、と思います。
緒方貞子さんの偉大な功績やその思いに思いをはせつつ、ご冥福をお祈りいたします。
コメント